▶闇に降る雨(2025.1.31)

椎名林檎の「闇に降る雨」を繰り返し聴いている。
父は林檎が好きだった。当時、林檎は人気の歌手だった。私も、カウントダウンTVで「幸福論」が毎週流れていたのを、はっきりと憶えている。好きだったのは「本能」「ギプス」で、アルバム「勝訴ストリップ」「無罪モラトリアム」は、擦り切れるほど聴いた。

「幸福論」がデビュー曲だと知ったのは随分と後のことで、私はそのことにも衝撃を受けた。あのとき、まだ世に出たばかりだったのか。であるならば、天才少女がどのようにして社会に現れ、浸透していったのか、その様を観ていたかった。確かに私は観ていたはずなのに、知らない。もしかすると、林檎は始めから、この世界に登場を予告されていた存在で、だから「出た」ことの衝撃無く、始めから受け入れられていたのかもしれない。それを検証する術は、無い。林檎五分前仮説である。

「闇に降る雨」は、「勝訴ストリップ」で「ギプス」に続く曲である。暗い雰囲気に響くストリングスの音色が苦手で、当時はきちんと聴いていなかった。私が林檎を聴いていたのは東京事変の「娯楽」あたりまでで、少しずつ、少しずつ、リアリティを喪い、フィクション、アート、コンセプト――といった性質を増し、さらに社会的なメッセージが込められるようになった頃から、聴かなくなっていた。私にはアートがわからぬ。私はストーリーを観たかったのだ。林檎は進化し、私は進歩のない男だった。

そんな中、たまたま「闇に降る雨」を聴き、当時の林檎らしい、退廃的で耽美な世界観と、残された繊細な物語を再発見するに至った。曲中で歌われる世界を、より深く知りたい、観たい、考えてみたい気持ちが募り、何度も何度も聴いてしまった。そこには、今や作品、つくりものとなった林檎の素の姿ともいえる、生の感情が残されていた。
「依存」「支配」「存在」「喪失」「苦痛」、色々と解釈の仕方はあるが、つまるところ、心の叫び、渇きと、それを潤さんとする「雨」の詩だった。

つづく(かも)